時には賢く逃げてもよいのじゃ

桔梗屋の若旦那と新右衛門さんの部下、辰之介さんがやって来ました。

一休「お二人揃ってどうされました。」

若旦那「辰之介さんが難しい顔をして歩いていたものですから、悩みがあるなら一休様に相談されては、とお連れしたのです。」

辰之介「担当している案件がことごとく暗礁に乗り上げておりまして、困り果てております。」

一休「易には天山遯という卦がありましてな、一旦遯(のが)れる効用を説いておりますのじゃ。

遯れるといっても逃げるわけではなく、力を養い、好機が来るまで待つということ。

辰之介さんもここは一旦遯れて英気を養ってみては。そうしている間に、良い考えも浮かんで来ましょう。」

天知「上爻の”遯れて泰然と遊ぶ”など、一休様そのものではないですか。」

一休「わはは、そうじゃな。それはわしのためにあるな。」

森女「わははじゃありません。」

一休「森女ちゃんにはかなわんから、たんに逃げよう。」

若旦那「私も遯れて、好機が来るまで待つとしましょう。」

一同「あんたは遯れんでよろしい。」

信がなければ人間関係うまくいかなくなるぞ

内裏からの指示で、定期的に一休さんにお米やお酒を届けている桔梗屋の番頭さんが、何やらブツブツつぶやきながら歩いています。

「番頭さん、どうされました。」

「これは一休様。実は帳簿の計算が十両ほど足りませんで、また若旦那の仕業かと困っているのです。」

「若旦那の仕業と決まったわけではないのでしょう。」

「いつもニセ易者などに騙されてまして、”折り入ってお話が・・・”なんて切り出した日にゃ、必ずお金の工面なんですよう。」

「そうやって申告しているわけで、盗んだことはないんでしょう?」

「それはそうなんですが・・・。」

「番頭さん、易経に風沢中孚(ふうたくちゅうふ)という卦がありましてな、孚という字は”まこと”、すなわち”信”であると。

そして信さえあれば人はついてくるし、信でもって人を正道に導きなさい、と説いてあります。

仏教にも信の心所という教えがありましてな、人には本来、心を清らかにしていくという心があって、その心があることを理解しようと努めて、あとは仏様におまかせしなさい、と。

どうじゃろう、若旦那も信の心で見てみては。」

「一休様のおっしゃるとおりかも知れません。」

「番頭さーん。」

「あっ、若旦那。」

「折り入ってお話が・・・。」