狭い見方を易で補正する

太田久紀著「成唯識論要講」(中山書房仏書林)を読んでいて、人の心は阿頼耶識、末那識、意識を通すことで、いかに世間の見方が狭くなるかということを学びました。

ではどうすればいいのか、ということについて、いろいろな唯識の解説書にその方法が書かれていたりするのですが、易を学ぶのも一つの方法だなと思っています。

それについては、河合隼雄さんの易に対する考え方が参考になるように思います。

以下、井筒俊彦さんとジェイムズ・ヒルマンさんとの対談、「河合隼雄 全対話Ⅱ」(第三文明社)からの、河合さんの発言の抜粋です。

「イメージです。私は患者さんに会っているときに、易経に描かれているイメージを持つことがあります。しかし、患者さんのために易をたてることはしません。

もし、私が因果律による心理学にのみとらわれていると、私の心は狭くなってしまいます。そうすると、単純な因果関係でとらえられないことを患者が述べても、それに注目しなかったり、すぐ忘れてしまったりします。そして、すべてのことを母子関係に還元してしまったり、この問題の原因は父親だと決めつけたりするような、きわめで安易な考え方に従うようになります。私にとっては、事象はもっと複雑で、患者さんの来る日が晴れているか、雨が降っているか、そんなことすべては、その人の治ってゆく過程に関連しているかもしれないという態度をとっています。これが易のアイデアだと思うのです。」

マインドフルネスと唯識

ティク・ナット・ハンさんのようなお坊さんが普及活動を行われて、マインドフルネスという言葉が知られるようになりました。

「今ここ」に意識を向ける練習法で、心を落ち着かせるなどいろいろな効果があるようです。

日本人でタイのスカトー寺副住職、プラユキ・ナラテボーさんが、托鉢に参加する日本人の方々にされるアドバイスにも、「今ここ」という言葉が含まれています。

以下、「「気づきの瞑想」を生きる」(佼成出版社)より抜粋です。

「托鉢中は基本的には歩行瞑想の要領で歩きましょう。一歩一歩をしっかりと自覚化し、今ここ今ここに気づきを伴わせながら歩きます。」

唯識の本を読みながら、そういえば唯識の「種子(しゅうじ)」と「熏習(くんじゅう)」に対しても、「今ここ」と同じように、「今種子」と「今熏習」と意識を向けて生活すると、考え方や行動も変わって行くかもしれないなと思い付きました。