一休さんと易の話を面白くする設定

以前より、一休さんが日頃から易に接する機会が多くなるような設定はないか、と考えていました。

易者さんや、易を学ぶ人達がいる環境。

例えば、今の栃木県にあった足利学校のような機関が近所にあるような・・・。

足利学校というのは、日本最古の大学と言われる中世の高等教育機関。儒学を中心に易学も盛んだったらしい。

なので、一休さんのいた京都に、架空の足利学校の京都分校なんかがあったら面白いんじゃないかと、何気なく「足利学校 京都分校」と検索してみました。

すると何と!本当に足利学校の京都分校として、京都伏見に圓光寺学校というのが出てくるじゃないですか。

う〜ん、これは何かのお導きか(笑)。

まあ、この圓光寺学校と一休さんの生きた時代は違いますが、儒教や易を教える架空の学校があってもおかしくはなさそうですね。

一休「お、○○学校のへっぽこ易者が歩いて来るぞ。」

弟子「シーッ!一休様、聞こえますよ。」

易者「一休殿、全部聞こえとるぞ。」

一休「お主の名占を噂しとったとこじゃ。」

易者「ふん、とぼけおって。」

・・・みたいな。

三蔵法師と唯識の話を面白くする設定

私自身、唯識の解説を読んでいるときは、心が安心していますし、積極的に言っていいことかどうか分かりませんが、面白いなぁ・・・と感じることが多いです。

何度も書いていますが、私は物心ついたときから神経症で悩んでいて、30歳を過ぎた頃にパニック障害、その影響で鬱病も併発。長年精神科に通いました。

それが唯識に出会ってからは、精神的な症状をほとんど感じなくなりました。

それは、それまで誰も教えてくれなかった心の仕組みを、唯識が詳しく教えてくれたから、というのが大きな理由だと思っています。

子供の頃、夜中にトイレに行くの、怖かったですよね。トイレに通じる廊下が真っ暗。「お化けがいるかも・・・。」

でも、暗闇にお化けはいないことが分かると、怖くなくなります。

それと同じなんじゃないかと思います。

そういう心のことが分かっていく過程を、文章にして行けたら面白いんじゃないか。

西遊記の登場人物はみんな強そうなんですが、私が勝手に思っているのは、三蔵法師が乗っている馬、玉竜が気が弱そう。

玉竜は、元はと言えば竜だったのですが、三蔵法師の馬を食べてしまったので、菩薩様から、三蔵法師が乗る馬に変えられています。

ちなみに、三蔵法師が書いた西域記には、三蔵法師が乗る赤毛の馬が出てきます。

その馬が食べられた馬ということにして、菩薩様が玉竜に、その馬の霊に謝って許しを請いなさいと諭された。

それ以来、玉竜の頭の中で「アカゲちゃん」、「ギョクリュウちゃん」と会話できる仲になる。

どちらも気が弱いものですから、三蔵法師にちょくちょく心について質問し、三蔵法師が唯識を元に、その質問に答える。

というような設定を考えているのです。

易と唯識のおおらかな肯定主義

易の吉凶

易も占いですから、結果に吉や凶が表示されます。

しかしその吉凶は、おみくじのようないい悪いではなく、四季の変化、月の満ち欠けのように、単なる変化の過程に過ぎないという考え方があります。

唯識の阿頼耶識

仏教の深層心理学である唯識には、心の最も深いところに阿頼耶識という層があるといいます。

そこは、ただただすべての経験や思考などを溜め込むだけの場所であり、宗教的な善悪や後ろめたい感情などは一切関係ありません。

いいことを続ければ、いいことの香りに包まれ、その結果として行動や思考にいいことが立ち上がってくる。

その逆に、悪いことを続ければ、悪いことの香りに包まれ、悪いことが立ち上がってくる。

人生を肯定的に考えられるようになる

私は物心ついた頃から神経症に悩まされてきて、30代になってパニック障害も経験しました。

ものごとを悲観的に考える癖がついていたのですね。

しかし唯識や易を学ぶようになって、上記のような考え方に触れてから、少しづつですがものごとを肯定的に考えられるようになったと感じています。

易や唯識を学べば、少し生きやすくなるんじゃないかなぁ、と思っています。

一休さんが易を解説

先日、西遊記の登場人物に、対話形式で唯識仏教を解説してもらうと面白いのではないか、そして唯識を学びながらそのことを考えている、と書きました。

今度は、もう一つの私の興味があること、「易」について、一休さんに解説してもらうと面白いのではないかと思い付きました。

一休さんのちょっと破天荒ではありますが、偏りのない生き方が、中庸を尊ぶ易の精神に重なるのではないかと思います。

さらに易で占う際、結果を卦(か)と六本の爻(こう)というもので表しますが、その六本の爻は、それぞれ庶民、三人の身分の違う官僚、君主、隠者を表したりするんですね。

一休さんは隠者に当りますし、日頃から庶民と触れ合っています。いろいろな身分の官僚も知っているでしょうし、何より父親が後小松天皇と言われています。

易を解説するのに、これ以上ないくらい「はまり役」なんじゃないかなぁ。

それに私は、NHKで放送されていた「オトナの一休さん」が大好きなのです。

あのイメージで、易を用いた人生指南のようなことを言ってくれたら面白い。

西遊記と同じように、易を学びながら、そのことを考えてみようと思っています。

西遊記の登場人物で唯識を解説

ここ最近、西遊記の登場人物に、対話形式で唯識仏教を解説してもらうと面白いのではないか考えています。

例えば、孫悟空が玄奘三蔵に相談します。

「お師匠様、俺は怒りっぽくていけねえ。なんとかならないもんですかね?」

玄奘三蔵は応えます。

「私が天竺で学ぼうとしている仏教の一派に唯識というのがある。それによると、怒ってばかりいると、心には怒りの種子(しゅうじ)が溜まっていく。その反対に、平静を保っていればその種子が溜まっていく。そして溜まった種子が次の言動となって発芽するんだよ。だから、日頃からできるだけ平静を保つようにしてごらん。」

というような具合。

想像すると楽しいので、唯識を学んでいるときに取り入れてみようと思っています。

易は潜在意識を知る一つのヒントだと思います

心は「眼(げん)識、耳(に)識、鼻(び)識、舌(ぜつ)識、身(しん)識、意識」の顕在意識と、「マナ識、アラヤ識」という潜在意識の、八階層になっている。

フロイトより千年以上前に潜在意識を発見していたといわれる、インドの唯識仏教の説く心の構造です。

もちろん科学的根拠はありませんが、当時のお坊さんたちの瞑想などの修行から体系化されたものだけあって、解説書を読むたびに納得させられます。

そして学んで行くほどに、自分のマナ識やアラヤ識をのぞき見てみたいと思うのですが、潜在意識ですから分かるはずがありません。

そんな中、私は易を学ぶようになりました。

易は占った結果を自分なりに解釈しなければなりません。

上手く行くだろうなと思ったことに凶が出たり、その逆のことが起きたりします。

その度ごとに、「自分ではこう思っていたのに潜在意識は違うのかな」と、一旦頭をリセットしていろいろな可能性を探ってみます。

そう考えると、自分のマナ識やアラヤ識が易の結果に反映されているのかもしれない、と思うようになりました。

これがサイトタイトルを、iching(易)alaya(アラヤ識).com にした理由の一つです。

易で凶が出たら「よかった」と思います

ちょっと出来すぎの結果が出たので、日頃思っていることを書きます。

私は易の勉強を兼ねて、毎日「今日はどのような日になるでしょうか?」と占っているでのすが、三日続けて凶が出ました。

風沢中孚(ちゅうふ)の三爻、雷火豊の上爻、水火既済の上爻。卦自体は悪くないのですが、爻で見れば凶。どちらかといえば大凶ではないでしょうか。

そして、「ああ、あのことだろうな」、と実際にその心当たりはあります。

ただ、易の吉凶は季節の四季や月の満ち欠けと同じで、交互に巡ってくるものです。

私はそれを知ってから、吉凶をそれほど気にしなくなりました。それどころか、もっと早く易を知っていたらな、と思っているのです。

私は人生で良い時期も悪い時期もありました。多かれ少なかれ、どんな人も同じだと思います。

特に独立して以降、自分では結構痛い目にあったつもりです。

そんなとき、あらかじめ易で凶が出ていたら、いつも以上に心当たりを探したでしょうし、良い時期が巡ってくるまで慎重に行動したと思います。

そして昨日になりますが、四日目の占断で、風天小畜の上爻を得ました。

易の解説書には、「ようやく危機を切り抜けた」というようなことが書かれています。

そして今日の結果が、地天泰(たい)の初爻。吉と見て良いと思います。

吉凶が交互に出ることはあるのですが、今回のような結果になることは私にとっては珍しいので、あえてブログに書いてみました。

ティク・ナット・ハンさんが亡くなられました

1月22日に95歳で亡くなられました。

近年は体調を崩されていたようで、ご高齢ということもあり、心配していたのです。

私はハンさんのおかげで、瞑想やマインドフルネスのことを、初めて自分なりに実感することができました。

本当に感謝しています。

この度のハンさんご逝去の報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。

瞑想、坐禅、お経など、仏教にはもっと気軽に触れていいと思います

「ナイトスタンド・ブディスト」という言葉があるようです。
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/8734.pdf

仏教徒ではないけれども、夜ナイトスタンドのもとで仏教書を読みながら、瞑想などを行なう人々。アメリカでは数百万人と推定されているそう。

アメリカの人たちは、本当に効果のあるものならば、オリジナルのものから自分流にアレンジして取り入れることに躊躇がないようです。

「今ここ」を生きることを説いた仏教のマインドフルネスもそうですね。

ジョン・カバットジン博士の「マインドフルネスストレス低減法」は、宗教色をなくしたからこそ広く取り入れられるようになったと言われています。

私は「ナイトスタンド・ブディスト」という言葉を聞いて、このストレス低減法と同じニュアンスを感じ、少し肩の荷が下りた気がしました。「数百万人」の中には、仏教以外の宗教の方だけでなく、私のように無宗教の方も多数含まれているでしょうから。

それまで、仏教を学ぶからには、ある程度はストイックに修行をしなければならないのだろう、と考えていました。

私は仏教の深層心理学とも言われている唯識に、とても興味があって学んでいるのですが、正式には瑜伽行(ゆがぎょう)唯識派というだけあって、ちゃんと瑜伽、つまりヨガのような修行を伴わなければ、学んではならないような後ろめたさがあったのですね。

なので、これを読んでいる方が、仏教が宗教ということで関わることに躊躇されているならば、「ナイトスタンド・ブディスト」になったつもりで、瞑想やお経の本に触れてみてもいいのではないでしょうか。

もちろん仏教へのリスペクトは大事ですが、二千年以上続く素晴らしい知恵を知ることで、心が元気になり、周りの人々にもよい影響を与えることになるならば、気軽に触れるのもいいことではないかと思うのです。

自分の中にはないことも易経にヒントがあるかもしれません

学校や職場でいろいろな人と関わっていると、「えっ、そんなこと考えてるの?」とか「何でそんなことするの?」というような、思ってもみないことを見聞きすることがあります。

自分の中にはないことに遭遇して、混乱してしまうんですね。

逆にいえば、自分の発言や行動も、人から同じように取られているかもしれません。

以前はそのようなことに遭遇したら、どう考えていいのか分からなくてただただ狼狽するばかりでした。

しかし今は易経を学んでいるので、すぐには対応できなくても、いつかは易経の中にヒントが見つかるかもしれないな、と考えて安心することができるようになりました。